追悼・第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子さん 特別インタビュー 国連難民高等弁務官フィリッポ・グランディ
公開日 : 2020-06-09
追悼・第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子さん
特別インタビュー 国連難民高等弁務官
フィリッポ・グランディ
かつて緒方貞子さんの官房長として重責を担い、今では国連難民高等弁務官としてUNHCRを率いるフィリッポ・グランディ。インタビューで、過酷な活動現場での緒方さんとのエピソードや、彼から見た緒方さんの人間像、個人的な思いについて聞きました。
国連UNHCR協会(以下協会):緒方さんに初めてお会いしたのはいつでしたか?第一印象はどうでしたか?
グランディ国連難民高等弁務官(以下グランディ):初めて関わりがあったのは1991年、私がイラクで働いていた時で、イランやトルコへ多くのクルド難民が逃れているさなかでした。緒方さんはそのクルド危機が始まった頃に国連難民高等弁務官に就任したのです。当時現場は危険で、多くの職員が「もう少し待つべきです」と言いましたが、緒方さんは「私は行きます」と告げたのです。本当に勇気のいることでした。就任後初の視察の一つに、高等弁務官である彼女が保護するべき難民のすぐそばへ行くことを選んだのです。まだ34歳頃で経験の浅い私にとても強い印象を残しました。現場の私たち職員にとって、「緒方さんは私たちのようだ。最前線の私たちのために闘ってくれる人だ」という大きなサインでした。そして以後10年間、彼女はそれを実践したのです。
協会:緒方さんはかつて「小さな巨人」と言われました。グランディさんの言葉で緒方さんをどう表現されますか?
グランディ:緒方さんに会ったことのあるどんな人にとっても、緒方さんは強い方でした。私は緒方さんを小さな方と思ったことはありませんし、「小さな巨人」という表現もあまり好きではありません。緒方さんは外見的には小柄だったかもしれませんが、とても強い方でした。その内側にある強さ、知性の力、非常に鋭い心理的なセンスに、誰でも会ってすぐに引き込まれてしまいます。彼女はとても強いパーソナリティを持つと同時に控えめで沈着でもありました。非常に冷静で感情を露わにしないところも、難しい緊急事態における大きな信頼や信用につながっていたと思います。
協会:緒方さんはどんなふうにUNHCRの活動を変えたと思われますか?
グランディ:多くの側面がありますが、重要な点は2つです。まず、緒方さんはUNHCRの緊急事態における対応能力を拡大しました。彼女は大きな人道危機の中でUNHCRを指揮しましたが、最も象徴的なものにユーゴスラビア危機があります。緒方さんはこの危機に大きく関わり、UNHCRはユーゴにおける主要な人道支援機関となりました。オペレーション能力を高めるように求め、それは、当時の国連機関のやり方よりも、支援の最前線にいるNGOのようでした。今でこそ多くの人道支援団体が最前線で緊急支援を行っていますが、UNHCRは当時の国連機関の標準よりずっと先を行っていました。とても先見の明があったのです。
もう一つはメディアとの連携です。緒方さんは私たちにメディアに出るよう促しました。もし支援を得たいなら、人道危機で何が起こっていて、助けるために何が必要なのかを知ってもらわなければと考えたのです。それまでは高等弁務官や報道官など限られた上層部の人々だけがメディアに出ていましたが、緒方さんはとても優れた広報チームの元で、現場の職員に責任を持ってメディアと連携する文化を吹き込んだのです。
協会:著書* の中で、緒方さんはザイール(現コンゴ民主共和国)の現場のグランディさんから直接電話を受け、重要な決断をしたと書いています。その時のことを教えてください。
グランディ:私は当時(1997年)、ザイールの内戦下での活動を指揮していましたが、ルワンダ難民はザイールで身動きが取れない状況でした。UNHCRは彼らを救出し避難させる任務を負っていました。とても複雑かつ危険で、政治的にも利用されていた状況なのは認識していましたが、撤退すれば戦闘の中で難民を見捨てることにもなりえました。とどまるか、撤退するか。若く経験があまりなかった私にはとても難しい決断でした。そこで緒方さんのオフィスに電話したのです。緒方さんは直接私の電話を取り、しばらく話し合った後「あなたの意見は?」と尋ねました。私は「とどまるべきだと思います」と言いました。本能的にそう思ったのです。UNHCRは常に、苦しんでいる難民のそばにいなければならない。それが私たちの責任です。しかしそのために大きな犠牲を払っていました。それでも緒方さんはとどまる決断をしたのです。正しい決断でした。私たちは多くの命を救ったからです。今私は高等弁務官となり、かつての私のようにジレンマに陥ったフィールドの職員から電話を受けることがありますが、それをありがたいと思っています。人道支援に携わる者として、こうした選択を迫られることは最も難しい状況だからです。私は常に、職員を助けられるよう最善を尽くしています。
* 「紛争と難民 緒方貞子の回想」(集英社)など
協会:グランディさんからみて、緒方さんが高等弁務官として最も対応が難しかった人道危機は何だと思われますか?
グランディ:2つあると思います。1つ目はアフリカ大湖地域* の危機で、ルワンダ大虐殺から周辺地域での度重なる避難、ザイールの内戦など1993年~1994年の一連の人道危機です。2つ目はそれとほぼ並行して起こった、1991年からの旧ユーゴスラビアにおける戦争で、緒方さんの任期の初期に始まり、その終わり頃に終了した危機です。緒方さんはこの2つの危機に最も力を傾けたと思います。もちろんその他にも東ティモール、ミャンマーにおけるロヒンギャの人々、アフリカの多くの危機…、他にも多くのエピソードがあります。でも緒方さんが高等弁務官だった「激動の10年」のなかで、先ほどあげた2つの危機が最も難しく、高等弁務官としての緒方さんを特徴づけるものだったと思います。
* ここでは、アフリカ中部のルワンダ、ブルンジ、旧ザイールなどを指す
協会:緒方さんと働いていた時の最もエモーショナルなエピソードを教えてください。
グランディ:1994年、私が最初にザイールで働いていた時です。100万人ものルワンダ難民が流入する緊迫した中でコレラの流行が発生し、わずか数日で約3万人がひどい状態で亡くなりました。緒方さんは勇敢にもその直後に現場に来たのです。
彼女を尊敬したのは、そうした難民のひどい状況や多くの問題を起こしていたコレラの危険にもかかわらず、彼女がはるばる難民キャンプを訪問すると主張したことです。難民に会い、UNHCRや他機関の支援をその目で確かめ、私たち最前線の職員をサポートするために。この時に私は初めて緒方さんに会いました。緒方さんは職員たちを大げさにねぎらうことはしません。いつもクールで冷静です。「この仕事を続けなければなりません。これが私たちの任務です」と話す。彼女はこの任務の本質を理解し非常に重要なものとして考え、私たち全員がその責任を果たすべきだと考えていました。とても自然かつ明白で、議論など不要でした。その姿は、どんな大げさな表現よりもはるかに私たちを奮い立たせました。私は彼女の視察での姿から本当に多くを学んだのです。
彼女は、包囲下のサラエボでも防弾チョッキとヘルメットで最前線を視察する姿をメディアに公開した、初の人道支援のリーダーでした。その姿は強烈なインパクトを与え、彼女はバルカンのシンボルになりました。私は後年彼女と当地を訪れましたが、彼女は伝説でした。人々は決して彼女のことを忘れていませんでした。治安が悪く狙撃兵に狙われる危険もあった中、彼女が大きな危険を冒して現地を訪れたことを人々は知っていたのです。
協会:緒方さんはいつもグランディさんに全幅の信頼を置いていたそうです。なぜだと思われますか?
グランディ:そうだと良いのですが(笑)。最初私は彼女のアシスタントになり、その後官房長になりました。一緒に多く旅をし、緒方さんのスピーチの原稿を書くなど様々なサポートを行う中で、とても生産的で有益な関係を築き、個人的な友情を築くことができたと思います。緒方さんは厳しい方でしたが、一緒に働きやすく、彼女をサポートすることは幸せでした。緒方さんは常に提案やアドバイスにオープンで、何よりも信頼できる人だったからです。UNHCRを退任されJICAの理事長となられてからもその友情と信頼関係を保つことができたことを大変光栄に思います。UNHCRを改革する緒方さんのプロジェクトの一員となり、彼女のようなリーダーにアドバイスやサポートをして、共に難民を助けることができたことに大変感謝しています。
協会:上司である緒方さんと意見が異なるときにはどう対応しましたか?
グランディ:少し気をつけないといけませんね。でも異なる意見を伝える方法がありました。私は緒方さんのオフィスで3年以上緊密に連携して働きましたから、時間がたつにつれ、アドバイスしたり議論をもちかけるタイミングが分かるようになりました。緒方さんは何事も当然のようには受け止めません。彼女はアカデミックで合理的な精神を持っており、すべてを分析することに慣れていました。ですから、ただ議論を持ちかけるのではなく、しっかりした根拠のある説明をしなければなりません。私にとって、多くを学ぶ素晴らしい学校のような場でした。
協会:緒方さんの言葉で、忘れられない言葉はありますか?
グランディ:ええもちろん、たくさんあります。緒方さんは世界の政治が激動し変貌するさなかに高等弁務官になりました。冷戦時代から異なる時代へと移った時代で、1991年は本当に大きく変化が起こっていた時でした。だからこそ緒方さんは自叙伝のタイトルに「激動の10年」* とつけたのです。
*「紛争と難民 緒方貞子の回想」(集英社)の英語タイトルは「The Turbulent Decade(激動の10年)」
政治学者だった緒方さんは私たちにも、安全保障理事会や国々、大学に対しても繰り返しこう言いました。「人道危機は政治的なものです。私たちは難民に対し人道支援を行うことはできます。しかし解決は政治的になされなければなりません。人道支援で解決はできないのです」。今の時代なら誰もがそう言います。しかし当時は新しい考え方でした。緒方さんは人道支援のリーダーとしてそれを示したのです。緒方さんは決して挑発的でも攻撃的にもならず、不必要に大きな声を出すこともせず、リーダーたちに人々への義務を思い起こさせ実行を強く促しました。政治家たちからとても尊敬されていた理由だと思います。
緒方さんは外交官一家の出身で日本とアメリカで育ち、日本開発銀行の副総裁も務めた夫を持ち、優れた国際主義者でした。全てにおいてとてもグローバルなアプローチをしましたが、同時に大変日本的で、日本にとても愛着を持っていました。
彼女は私に言ったものです。「フィリッポ、どんなにキャリアを積んで世界に接するようになっても、決して自分の母国のことを、自分のルーツを忘れてはいけないのです」と。
私が原稿を担当した、アメリカの会議での緒方さんのスピーチのことを思い出します。彼女が決めたタイトルは「日本と私」。それは日本への愛情の証であり、感動的なものでした。他国と地理的に離れ、海に囲まれある意味で孤独な日本が、世界へ開かれた国であり続けてほしいと願うものでした。彼女がどれほど日本と日本人のために、オープンであり続けることを願い、働きかけ続けてきたかということは、私が語る必要はないでしょう。
2019年10月、故・緒方貞子さんへ向けたグランディ国連難民高等弁務官のSNS投稿
インタビュー後記:
インタビューの間、グランディ国連難民高等弁務官の言葉の端々には緒方さんへの強い尊敬と親愛の念があふれ、とても熱がこもっていました。まさに、緒方さんを語ることはUNHCRの活動の真髄を語ることなのだと気づかされました。彼の語るかつての緒方さんの姿が、今のグランディ高等弁務官の姿勢や発信する言葉と全く矛盾しないことにも強く感銘を受けました。緒方さんの思いを誰よりも受け継ぎ、UNHCRを通して世界中に伝え続けているのはグランディ高等弁務官ではないかと感じました。