第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子
UNHCRの活動
  第8代国連難民高等弁務官   緒方貞子

皆さま

紛争や迫害など、様々な理由で故郷を追われた人々は、世界各地で数千万人に上ります。そのような人々を保護する国連の人道援助活動は、市民の皆さま一人一人によって支えられています。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の第8代国連難民高等弁務官として、私も、世界各地の難民支援に取り組みました。多くの個人、市民団体や企業の皆さまが、それぞれの立場からサポートしてくださったことを大変心強く感じておりました。

遠い国の出来事であっても、今もどこかで苦しんでいる人々に思いを寄せ、地球に共に生きる人間として、支え合おうとする連帯感が必要です。2011年の東日本大震災の際には、世界各地の国や人々が日本に温かいご支援の手を差し伸べてくださいました。

苦難にある人々をお互い助け合おうという機運が今まで以上に高まっているように日々感じております。

UNHCRの日本における公式支援窓口である国連UNHCR協会を通じ、日本でも難民支援の輪が益々広がることを心より願っております。

第8代国連難民高等弁務官
外務省顧問・JICA特別顧問
緒方 貞子

緒方貞子さんは、1991年2月から2000年12月までの10年間、国連難民高等弁務官として世界の難民の保護と救済に活躍しました。在任中の3期10年の間に、UNHCRは様々な人道危機の最前線で援助活動を行い、新しい難民支援の枠組みを作りあげました。その結果、UNHCRは国連の中心的な組織として生まれ変わり、組織、予算も2倍の規模になりました。(このメッセージは2013年6月に掲載されました。)

クルド難民 - 命を救う決断

就任した1991年は、冷戦が終焉し、代わって民族的、宗教的、社会的な国内紛争に次々と火がつきはじめました。

湾岸戦争終結後のイラクから、クルド難民140万人がイランへ、40万人がイラク・トルコ国境地域に流出しましたが、トルコが治安のために難民受け入れを拒否し国境を閉ざしたため、UNHCRはイラク領土内でクルド難民を救済することとなりました。

難民条約は、難民は「国境の外に出てきた人」と定義していますが、「国境を越えていない」人々を保護すべきか、という問題に直面しました。緒方さんは、人間として「救わなければならない」という基本原則(プリンシプル)を守るために、行動規範(ルール)を変えることを決断し、イラク領内でのクルド難民救済に踏み切りました。

バルカン紛争 - 危険の中での人道援助

1991年、ユーゴスラビア連邦からスロベニア、クロアチアが分離独立するとともに、民族間の紛争が発生。当時、ユーゴ連邦の政治の実権はセルビア人が握り、領土を維持しようとするセルビア中心の連邦軍と、独立を図る各共和国軍という対立構造になりました。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、独立を求めるムスリム人は人口の4割に過ぎず、反対するセルビア人、クロアチア人と対立。92年4月に軍事衝突が起きると、壮絶な内戦が始まりました。

セルビア系武装勢力の包囲によって孤立した首都サラエボに、UNHCRは軍との協力による物資空輸を1992年7月から3年半続けました。この戦争は、UNHCRの使命を拡大させ、難民の保護だけでなく、国内避難民や戦禍に巻き込まれた一般市民にまで保護を拡大する必要に迫られました。

ルワンダ難民 - 運営の難しい難民キャンプ

第8代国連難民高等弁務官 緒方貞子
1994年7月にザイール(現在のコンゴ民主共和国)のゴマに向かって100万人規模で流出したルワンダ難民ですが、その中には集団虐殺に関与した武装兵士や民兵が紛れこんでいました。

難民とどのように区別するかが大きな問題になりましたが結局、国連軍は派遣されず、UNHCRは女性、子どもが多数の難民キャンプでも旧戦闘員を区別することなく、食糧等を援助しました。

道義的な問題を理由に有力なNGOも撤退する中、緒方さんは現場の援助を続けました。UNHCRは、国連総会から委任され、難民を保護支援し、問題を解決するという任務のため、選択肢は他にはなかったのです。

人の命を助ける

上記3つのケースは、難民保護の原則を守りつつも、従来の難民援助の行動規範を変えなければならなかった例です。緒方さんは、現場の状況に応じて、最も役に立つ方法は何かということを判断の基準にしました。役に立つとは、人の命を助けるということです。生きてさえいれば、人間として新しい可能性とチャンスが与えられるからです。UNHCRの仕事の8割は現場にあります。冷戦終結とともに、国際社会に大きな変化があったなかで、UNHCRの任務を如何に効果的に果たせるか、という考え方で仕事に取り組みました。国際社会の中で、不当な扱いを受けている人々を守る、難民という犠牲者のいわば保護者として、数々の交渉に当たり、支援をリードし尽力したのです。

「UNHCRに在職したことは、私にとって素晴らしい学習経験でした。正直に申しますと、ジュネーブに着任したとき、私はUNHCRについて、崇高な大義をもつけれども、どちらかと言えば、現実離れした組織という、かなり抽象的なイメージしかもっておりませんでした。しかし、来る年も来る年も、困難な現場において、私はUNHCRの仲間の勇気、決断力、情熱を目の当たりにし、心から有難く思う機会が数え切れないほどありました。私たちの仕事がどれほど容赦ない現実との戦いであり、実践的であり、具体的な結果が求められるかを、私は知っております。また同時に、今日の世界が直面する問題と関わっていることも承知しております。このように、きわめて過酷な現実と、力強い理想主義の組み合わせのなかで活躍しているところに、UNHCRの強みがあります。」

ジュネーブ 2000年12月20日/
「国連難民高等弁務官からUNHCR職員への惜別の辞」から引用

参考文献

「私の仕事 国連難民高等弁務官の十年と平和の構築」 緒方貞子著 (草思社、2002年)
「緒方貞子 難民支援の現場から」 東野真著 (集英社、2003年)
「紛争と難民 緒方貞子の回想」 緒方貞子著 (集英社、2006年)

緒方貞子さんの略歴

1927年 東京生まれ
1976-78年 国連日本政府代表部公使
1978-79年 特命全権公使
1978-79年 ユニセフ執行理事会議長
1982-85年 国連人権委員会の日本政府代表
1983-87年 国際人権問題委員会委員
1990年 国連人権委員会専門家として、ミャンマーの人権状況に関する調査を行う
1991年 第8代国連難民高等弁務官に就任
2000年12月末 国連難民高等弁務官を退任
2001年より 人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表、国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会委員長を歴任
2003年10月1日 国際協力機構(JICA)理事長に就任
2012年3月末 国際協力機構(JICA)理事長を退任
2019年10月没 享年92歳

(文責:国連UNHCR協会)

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