緒方貞子国連難民高等弁務官による開会の辞 第51回UNHCR執行委員会
あらためて緒方貞子さんのお言葉を皆様と共有させていただきたく、10年間の国連難民高等弁務官の任期を終える直前、2000年10月2日にジュネーブで開かれた第51回UNHCR執行委員会における緒方さんの開会の辞の日本語訳を初公開いたします。
公開日 : 2020-01-09
国連議長
事務総長
閣下
貴賓代表団
みなさま
第51回執行委員会(Executive Committee)へようこそ。国連事務総長としては初めて本委員会(Committee)で演説を行なうコフィー・アナン氏という、非常に特別なゲストをご紹介できることを喜ばしく、かつ光栄に思います。UNHCRで働く私ども全員がこれを、最も著名な元同僚の帰郷と受け止めています。彼の賢明な助言と友情は、私にとって長年、計り知れないほどの支えとなってきました。彼を温かい拍手で迎えようではありませんか。
本委員会の新たなメンバーとして、チリ、コートジボワール、韓国を歓迎し、次の事務局(Bureau)とその議長であるイラン・イスラム共和国のコラム大使の就任をお祝いできることを、喜ばしく思います。大使は来たる年の本委員会(Committee)が辿るだろう変化を乗り切る上で助けになる、多国間フォーラムでの幅広い経験をもたらして下さいます。最後に、議長職を退任されるスペインのペレス・エルナンデス・イ・トーラ大使に特別な感謝を捧げたく思います。彼の献身と独創力と素晴らしいユーモアは、UNHCR職員の記憶に長く留まることでしょう。
過去1カ月間に2回も、私どもはこの同じ場所に集い、同僚たち ―― 西ティモールでサムソン・アレハゲンとカルロス・カセレスとペロ・シムンザが、そしてギニアでメンサ・クポグノンがむごたらしく命を奪われたことに対する、哀しみと怒りを表しました。幸運にもギニアでの襲撃事件後行方不明になっていたローレンス・ジェヤは、故郷のコートジボワールに無事帰国しています。これらの犯罪は4つの家族と私どもの事務所の職員、そして人道援助活動に携わる人々のコミュニティ全体に、大きな衝撃を与えました。当事務所の創立50周年にあたり、以上4人の同僚と、難民救済活動で命を落としたUNHCR全職員を追悼する記念碑を本部に設置することを、私は決めました。
過去を顧みて
みなさま
今年の末に現職を離れるにあたり、少し長めにお話しさせて頂くことをお許し下されば幸いです。そしてまずは、過去10年間を簡単に振り返ることから始めたく思います。
1991年に私が高等弁務官に就任した時、冷戦はまだ終結したばかりで、人々は新しい世界秩序について語っていました。より良い方向への変化には、目覚ましいものがありました。民主主義は中央および東ヨーロッパ各地、そしてラテン・アメリカのほぼ全域にまで広がりました。南アフリカでのアパルトヘイト政策も廃止されました。
ひとりの学者が予言したように、歴史が終わることはありませんでした(注:『歴史の終わり』と題された著書があるフランシス・フクヤマに言及していると思われる)。それどころか、特に私どもの仕事の分野においては、状況はよりいっそう複雑化しました。1991年、高等弁務官就任から数週間も経たない頃、200万人のクルド系イラク人がイランとトルコへと逃れました。その後まもなく私どもはイラク北部に赴き、初めて国際的な軍隊組織と密に連携しながら活動を行ないました。そしてこれに続く数年間、特に旧ユーゴスラビアと中央アフリカでは、自分たちが立てた保護、援助、問題解決の計画の再考を絶えず迫られていました。
保護活動の基盤は法的措置にあることに変わりませんが、保護を確かなものにするには、次第に、現場での直接的対応を要するようになりました。UNHCRはしばしば戦闘状態にある中、最前線で活動を行ないました。難民の発生国での活動は、特に帰還民が社会に復帰する手助けをする上で、大きく活発化しています。昨今は、保護に関しても革新的なアプローチが必要とされています。私どもは、ボスニアとヘルツェゴビナからの難民の一時的保護を奨励することで、新たな試みに乗り出し、たくさんの人命を救いました。
同時に、紛争における新たなパターンが、強制的な人口移動をかつてなく流動的かつ複雑にしています。私どもは非常に難しい、不明確な事情やジレンマに直面しました。多くの場合、誰にも頼れないままに。ボスニアとコソボでは、本格的な国際的介入が始まったのはあまりにも遅く、人々が置かれていた状況が恐ろしく悪化してからのことでした。アフリカも大湖地域においては、人道的活動を除いて、有意義な国際的介入は1994年以降一切見られません。
政治的かつ外交的なイニシアチブによって解決されなかった紛争の中には、最終的に、国際社会による軍事的な対応を引き起こしたケースもあります。これは、いわゆる“人道的な戦争” ―― この表現は私にとって非常に悩ましいものです ―― の茫漠とした新時代と、より混雑した人道援助の場を作り出しました。
バランスシート
今、新たな10年 ―― 新たな時代 ―― がUNHCRに訪れようとしています。最後の任務を受け入れるにあたって私は、遺産を残すのではなく、未来を残したいとお話しました。今日はその未来について、私なりの認識を詳しくお伝えしたいのですが、その前に、間もなく終わろうとしているひとつの時代を総括する、簡潔なバランスシートを提示できればと思います。
私どもには成功もありました。中でも重要なのは、過去10年間に何百万人もの難民が帰還したことです。国外で亡命生活を送っていたアフリカ民族会議(ANC)の関係者が、アパルトヘイト後の南アフリカに帰郷したことが筆頭に挙げられますが、次に特筆すべきケースは、21年間続いた戦争によって全人口の3分の1以上が故郷から避難したモザンビークでしょう。私どもの精力的な取り組みが実り、1995年には170万の全難民が帰還。さらに強調すべき点は、彼らがその後も祖国に留まったことです。
アジアとラテン・アメリカでも成功例があります。カンボジアでは40万人近い難民の帰還を支援。本年初めのタイからラオスへの帰還計画の終了と、香港のピラー・ポイント・センターの閉鎖は、25年に及んだインドシナ難民にまつわる物語の終焉を告げました。私は昨年メキシコを訪れて、数十年間続いた中央アメリカにおける難民危機に終止符を打つ、UNHCRの帰還作戦の正式な終了に立ち会いました。
難民問題の解決には時間を要します。それは私が長年かけて学んだ教訓です。しかし、中央アメリカでのCIREFA(中米難民国際会議)プロセスと同様、ベトナム難民のための包括的行動計画(Comprehensive Plan of Action)は、各国政府が責任を引き受けて必要な物資や人員を用意することができれば、複雑な難民問題も解決できることを証明しました。そして解決は往々にして、自発的な帰還だけではなく避難先の社会への順応、市民権の付与、あるいは第三国定住を含む、複数の手段のコンビネーションによってもたらされるのです。
未解決の難民事情についてもお話しましょう。多数の問題がありますが、ここでは幾つかに絞って、詳しくお伝えしたいと思います。まずは、状況好転の兆しが見受けられる場所での危機から始めます。すでに確信が持てるケースも、芽吹いて間もないケースも織り交ぜて。
例えばボスニアとヘルツェゴビナ、そしてクロアチアでの少数派住人の帰還が、ここにきてようやく実現しつつあります。ヨーロッパで最多数の難民を受け入れているユーゴスラビア連邦共和国からクロアチアへと、難民が帰還しています。ボスニアの国内避難民でさえ、事実上の民族浄化と同一視されていた町に戻っています。緊張は解け、治安は改善され、今や帰還を阻むのは往々にして、政治的ではなく実務上の障害物なのです。しかしこれらの歓迎すべき傾向は、恒久的なものではありません。帰還の支えとなるよう家を建てて雇用を創出するために、より多くの資金が必要とされています。
ルワンダでも進捗がありましたが、帰還を確固たるものにし、和解を促すべく、新たな開発投資が必要です。UNHCRによる再建事業は終わりに近づいています。開発の担い手たちに、ここで前に歩み出てもらわなければなりません。政府は権限分割と民主化にまつわる抜本的問題を解決しようという、政治的な意志を打ち出さなければなりません。
ブルンジもまた岐路に立っています。平和なのか紛争の再発なのか、選択を迫られています。後者は間違いなく、大規模な住人の避難を引き起こすでしょう。(注:南アフリカの)マンデラ大統領はアルーシャ合意に向けて新たなはずみを与えました。8月28日の和平合意に重要な関係者の一部が署名しなかったことは残念でしたが、努力をし続けなければなりません。平和が訪れ次第、50万人を超える難民がタンザニアから帰郷できるよう、UNHCRは支援する準備を整えています。他方で、タンザニア政府がその寛大な難民保護政策を維持する手助けも必須です。難民は、一日に必要な食糧配給の60%しか受け取っていません。緊張は高まっており、援助を縮小することは、難民が早期に帰還すると見做されているという、意図せぬメッセージを送ることになりかねません。
アフリカの角地域では、今年初めに起きた戦闘がエリトリアで150万近い人々(私が6月に訪れたスーダンに避難した9万人を含みます)が避難を強いられました。しかしながら、断固とした国際的取り組みによって停戦が実現。直近の干ばつの最も甚大な被害に対応する上でも、助けになりました。国連監視団の展開が始まっています。人々は帰途に就いています。私どもは、スーダンに避難した人々の4分の1以上を帰還させました。最終的な和平調停が、最近避難した人々にも、過去に流出した難民にも、解決をもたらすことでしょう。例えばソマリアなど、ほかにも励みになる兆しが見られるこの地域において、安定につながる重要な要素になるはずです。
明らかに進捗が見て取れる事例こそ、私どもにとって最も大切です。というのも、UNHCRは状況を改善できるのです。和平が形作られる間に難民の帰還を促進し、人道的なニーズに応えるという、重要な役割を担っているのです。
その他の方面では残念ながら、難民問題の解決策は現在も手が届かないところにあります。私が最も懸念している事例を幾つか挙げておきたいと思います。
1991年以降私が31回赴いたアフリカは、依然として、UNHCRにとって最大の懸案事項であり続けています。スーダン南部、アンゴラ、コンゴ民主共和国で紛争が勃発し、大量の避難民が生まれているアフリカ中部は、中でも恐らく最も気がかりな場所です。
政治的、軍事的、経済的な利害の複雑な衝突が起きているコンゴ民主共和国では、人々が苦しんでいます。この事実を私は大声で繰り返したいと思います。何百万もの人々が苦しんでおり、窮状に置かれている彼らを救う手立ては、ほとんど講じられていません。コンゴ人たちは国外に避難場所を求め続け、国内でも180万人が避難している一方、隣国から30万人以上がコンゴに避難をしているというパラドックスが起きているのです! そんな状況は、この危機的事態の地域的側面をさらけ出していますが、同時に、安全を求める人々の深い絶望感を見せつけてもいます。
今こうしてお話している間にも、何百万人もの難民がコンゴ共和国へと国境を越えています ―― それは、世界でも最も荒れ果てた、アクセスが困難な地域のひとつです。国際社会はいったいいつまで、彼らの苦しみに背を向け続けるのでしょうか? ルサカ合意は現在有効な唯一の和平の枠組みなのですが、目下立ち往生しています。交戦者とその支援者にもっと圧力をかけるべきなのではないでしょうか? 私は(注:コンゴ民主共和国の)カビラ大統領とゴマを拠点とするRCD(コンゴ民主連合)にこう告げました、両者の同胞が払っている代償を容認することはできないと。そして私は彼らと、(注:ウガンダの)ムセベニ大統領および(注:ルワンダの)カガメ大統領にもこう告げました。あなたがたが交渉を行なう時、人々のことを忘れないで下さい、戦争の犠牲者から目を背けないで下さい、と。
もうひとつの憂慮すべき地域は西アフリカです。ロメ和平合意実施の度重なる失敗が、50万人のシエラレオネ難民の帰還を阻んでいます。さらに数千人が国内に避難しており、僅かな援助しか得ていません。シエラレオネでの国連平和維持軍の今後の展開に向けて、より決然とした国際的支援が必要とされています。
しかし、私はこれらに勝る広範な不安を抱いています。土曜日にギニアの国境地方で、さらに2度の襲撃が起きました。不安定な状態がさらにエスカレートするだろうという深刻な危機に直面しており、この地域で膨大な人数の避難民が生まれます。そして難民の流出は、紛争を広げる“媒介物”のひとつにもなりかねません。何年にもわたって人々はリベリアとシエラレオネから逃れ、コートジボワールとギニアに安全な避難場所を見出していました。難民が暮らす地域に武装グループが侵入するのを防ぎながら彼らを助けるべく、これら2カ国によりいっそうの支援を行なわなければなりません。
人道援助は、治安面での支援と組み合わせる必要があります。ギニアのコンテ大統領は、シエラレオネおよびリベリアとの国境を監視するために、支援を要請しました。これは理に適った要請です。紛争の拡散と人道的な大惨事を防ぐためには、平和維持活動は国境地方にも集中させるべきなのです。
ほかの大陸に目を転じると、私が高等弁務官に就任した当時、人数の面ではアフガニスタン難民は世界最大規模でした。今年に入ってイランとパキスタンから帰還した16万6千人を含めて、1992年以降400万人以上の人々が帰還したにもかかわらず、250万人のアフガニスタン難民が現在も国外で暮らしています。私はこの地域から戻ってきたばかりです。もっと多くの難民が帰還を望んでいますが、それを妨げている障害があります。現在も続いている紛争、経済的な機会と基本的なサービスの不足、人権意識の欠如、特に女性の権利尊重 ―― 私はタリバンの幹部にこの点を強調しました ―― 干ばつ、そして最後にこれまた劣らず重要な、人道援助活動に必要な資力の不足、といった具合に。同時に、避難生活による疲れが帰還へのプレッシャーを作り出し、資金供与者の疲弊によってUNHCRが基本的なニーズに対応できなくなっています。難民受け入れ国での、そして特にアフガニスタン国内での活動により多くの資金を割り当てることは、最優先事項です。しかし資力だけでは問題を解決できません。アフガニスタンの悲劇の政治的解決策を探し出す、断固とした国際的関与が必須です。
コソボでは、大規模な国際的救援活動は終わろうとしています。昨年の冬は、寒さや食糧不足による死者が1人も出ませんでした。これは特筆すべき大きな成果です。今後のUNHCRの活動の主眼は、アルバニア人以外の人々の保護と支援に置かなければなりません。コソボの少数派住民は事実上の戒厳令下で、同じ民族が居住する飛び地に、KFOR(コソボ治安維持部隊)による厳重な警備と、UNHCRとその他の人道援助機関の支援を受けて生活しています。私どもは暴力と復讐と責任回避のサイクルを克服しなければなりません。現在も残っているアルバニア人以外の住民をコソボに留まらせることは、避難した人々に帰還という解決策を提供する第一歩となるでしょう。
ロシア連邦では1999年にチェチェン共和国で起きた紛争が25万人を避難生活に追いやり、その他の多くの人々に悲惨な生活を強いることになりました。約17万人の避難民と帰還民がチェチェン共和国での2度目の厳しい冬に直面し、さらに17万人がイングルーシ共和国に避難しています。UNHCRは可能な範囲内で国境の反対側からチェチェン共和国での支援を行なっていますが、治安状態が悪く誘拐の危険性があるためにチェチェン共和国内で活動することができず、隣国での展開も制限されているため、大きな効果を上げられていません。
ネパールで暮らすブータン難民の問題も同様に、なかなか解決が見られません。私は4月にブータンとネパールを訪れました。7年間にわたってネパールのキャンプで苦しんでいる約10万人の難民に関しては、間もなく解決策が見出せるのではないかというのが、私の印象です。彼らは無条件での帰国を切望しています。この場合、解決を妨げているのは紛争ではありません ―― それは、帰国させる難民を審査する方法の、解釈の違いです。私は両国政府に対し、まだ残っている問題について歩み寄りを促しました。ひとつの打開策を提示し、UNHCRが得ている情報を提供しました。ネパールは受け入れましたが、ブータンは拒絶しています。両者が合意するまで、人々は今後も正当な帰還の権利を奪われた状態にあることでしょう。
ティモールの状況にも深い憂慮を禁じ得ません。UNHCRはこの1年を通して、西ティモールで暮らす東ティモール出身の難民について、解決策を探ってきました。私の同僚たちは、悲惨な状況下で活動を行ない、東西統合派の民兵組織による圧力や威嚇や暴力にさらされながら、17万人の難民をキャンプから救い出し、故郷に送り返す手助けをしました。3人の同僚が殺害された事件を受けて私どもは、12万5千人の難民をあとに残して撤退しなければなりませんでした。その多くは帰還を選んだことでしょう。何もかも解決策を必要としています。私どもは彼らを助け、インドネシア政府を支援することをお約束します。しかし、支援には条件があります。当局が民兵組織の武装解除を行ない、解散させ、同僚たちの命を奪った犯人を逮捕して告訴するまで、戻ることはできません。
解決の見通しが立っていない案件のリストは、腹立たしいほど長いものです ―― ほかにも、アフリカの数カ国にちらばって生活している40万人以上のスーダン難民のこと、ずっと帰還が保留になっている西サハラの難民のこと、タイとミャンマーの国境沿いのキャンプで暮らす10万人の難民のこと、現在も“凍結”されている、南コーカサス3国の紛争から避難した大勢の人々のこと、コロンビアで故郷を離れて暮らす数十万の国内避難民のこと、スリランカの50万人以上の避難民のことにも、触れておきたいと思います。ほとんどの場合、分離勢力もしくは反乱勢力の活動と、不十分な紛争解決プロセスの組み合わせ ―― そして国際的関与と資力の欠如 ―― が、解決を困難にする危険なスパイラルを作り出しています。
未来に目を転じて
みなさま
人命を救うこと、保護を見届けること、そして解決策を見出すことは、これまでも今後も私どもの共通の目標であり続けるでしょう。過去10年間のバランスシートは、そこまで悪くはありません。地域によっては成果を上げ、然るべき問題に関心を喚起しました。自らの任務に背を向けていると非難されたりもしました。変化のスピードが速過ぎると指摘されたこともありました。しかしUNHCRは流動的な環境に立ち向かわなければなりません ―― 常に変わり続ける課題に挑むべく、進化し、向上していかなければならないのです。今後もそれを続行する必要があります。
従って私は未来に目を向けたいと思います。私どもは5つの分野で熟考し、計画を練って、行動をとらなければなりません。それらは、緊急事態、安全、複雑な人々の動き、平和構築、そして共存です。
まず、UNHCRの人命救助能力の核心にある、緊急事態への準備と対応力を強化し続ける必要があります。
1992年に確立された緊急事態のメカニズムは、難民危機に対応する私どもの能力を飛躍的に改善しました。殊に職員にとって効果的な待機態勢の規定を作り上げました。危機管理計画のトレーニングと支援を通じて、政府とNGOパートナーの準備態勢のレベルを向上させました。
これらの成果に私は誇りを抱いています。しかし人道援助活動を取り巻く環境は1992年から大きく変わりました。コソボの難民危機におけるUNHCRの初動対応は、私どもの緊急事態のメカニズムを見直す重大な必要性をさらけ出しました。コソボでの独立機関による査定の推奨をもとに、私どもは ―― 資力的に可能な範囲内で ―― 待機態勢の整備を拡大し、急速な展開に対応できるよう訓練された人員を増やして、現場での治安状況とロジスティックと通信事情と収容設備の差し迫ったニーズに対応できる“キット”と“パッケージ”を開発することで、“サージ・キャパシティ(注:突発的で大規模な人口移動への対応能力)”を上げる行動計画(Plan of Action)を実施します。新たな緊急サービスの長(Head of the new Emergency Service)は今後私の直属となり、安全面と軍事面における連携を統括します。
これは、重点的な取り組みを必要としている第2の分野にも関係しています ―― つまり、難民が生活し、人道援助活動が展開されている地域に、安全な環境を作り出すという課題です。
コンゴ東部、そして最近では西ティモールにおいて、暴力行為に及ぶ者たちと難民が同じ場所で暮らすことになった時にどれほど悲劇的なこと起きるか、私どもは大きな痛みを伴う教訓を得ました。アフリカ西部でも同様の傾向が見受けられます。
1997年以降私は、本格的な平和維持と治安対策の完全な欠落という両極の間にある、“段階的選択肢”を検討することを提唱してきました。このコンセプトは現在も有効ですが、それを実行に移さなければなりません。私どもの目的は、当事国の法執行のメカニズムを強化することを視野に入れて、国際的な民間団体、あるいは警察による監視体制を敷くといった、“中間”にある選択肢のもとに活動することにあります。
先日の、国連平和活動を検討するブラヒミ報告の公表は、歓迎すべき前進です。国連事務総長と連携してその推奨事項を実施できることを楽しみにしております。UNHCRは、同様の危険に直面しながら現場で活動している人道援助活動のパートナー ―― WFP(世界食糧計画)、UNICEF(国連児童基金)、OCHA(国連人道問題調整事務所)、赤十字委員会、IOM(国際移住機関)、その他無数のNGO ―― 共々、一連の論議に貴重な視点をもたらせることと信じております。
これと並行して、私どもは職員の安全確保に関しても、断固とした行動をとらなければなりません。こうしている間にもUNHCRとその他の人道援助活動に従事する人員は、世界中たくさんの場所で危険にさらされています。往々にして危険を伴う地域で難民に寄り添う必要性と、職員の安全を確保する必要性の均衡を見出すことが不可欠です。私は別途、国連監査官(Inspector General)の主導のもとに、アタンブアとマセンタでの殺害事件の調査を始めました。高等弁務官補(Assistant High Commissioner)が調整している、現在の安全対策に関する審査は、活動停止と職員の避難と最終的な活動再開を判断する基準の再評価を含んでいます。UNHCRはまた、目下進行している事務総長による国連の全システムの安全対策の見直し作業にも、貢献する予定です。
人道援助活動のコミュニティを筆頭に、私どもは他の組織と密に協力し合う必要があります。私はWFP事務局長のキャサリン・バーティーニ氏が安全関連の問題について演説するべく、本日この委員会に出席して下さったことに感謝しております。そして、先月各国政府が示して下さった弔慰と支持の声をありがたく感じながらも、今こそその支持の声を具体策に転化して頂けるのか、見定めたく思います。職員の安全確保にはお金が必要ですが、現時点ですでに資金不足状態にあるプログラムの数々を、さらに削減することで補填するわけにはいきません。みなさんの助けを、しかも迅速な助けを必要としているのです。
私どもは政治的な支援も必要としています。事務総長は国連総会に対し、1994年の国連要員および関連要員の安全に関する条約(Convention on the Safety of United Nations and associated personnel)に、人道援助活動に従事する国連の全職員に法的保護を保証する協定を追加するよう要請しました。国際刑事裁判所ローマ規定は ―― 一部制限はありますが ―― 人道援助活動人員に対する攻撃を戦争犯罪と位置付けています。これらの原則を国際法に規定する、緊急対策が必要とされています。難民の命を守っているのは私どもですが、私どもの生命が守られて安全に活動できてこそ、難民を救うことができるのです。
私どもの創造的な思考を要し、具体的行動に移すことを迫られている第3の分野は、複雑な強制的人口移動に対し、新たなアプローチを生み出すことにあります。
この問題にはふたつの重要な側面があると私は思います ―― 難民の保護を保証することと、より効果的に国内避難民の要求を満たすことです。UNHCRは、国連諸機関の協働アプローチの強化を目指す取り組みに、全面的に協力しています。国内避難に関する上級機関協力ネットワークの特別調整官(Special Co-ordinator of the Senior Inter-Agency Network)は、UNHCRから出向しています。国内避難の問題については、すでに最近お話したことがありますので、ここでは庇護に焦点を当てます。
私どもは、移住と強制退去のグローバリゼーションに対応するという、重大な課題に直面しています。迫害や人権侵害や暴力から逃れてきた庇護希望者は、より良い経済的機会を求める人々、そして環境関連およびその他の災害によって住処を追われた人々と、共に移動する傾向にあります。彼らは同じ国々の出身者であることが多く、同じルートを辿って旅し、同じ偽造書類を手にし、同じ人身売買と密入国の犯罪ネットワークを利用します。その結果、庇護を求めることと変則的な移住が、世間で深刻な混同を招いています。同時に多くの国で 制度が悪用され庇護に多額の費用がかかっているという認識が広まり、人々が次第に疑問を抱くようになりました。これに対し各国政府は、入国に際して身柄を拘束したり、保護義務を狭義に解釈したり、より限定的な保護の形を新たに作り出すなどして、庇護希望者が自国に到達することをいっそう困難にするという対応をとっています。
私どもは正当な懸案事項から目を背けることはできません。しかし、各国政府とUNHCRと難民は、普遍的で国際的な保護制度を確立することに根本的な共通の価値を見出すものと、私は確信しております。さる10月のタンペレでの首脳会議において欧州連合が、1951年の難民条約の全面的かつ包括的な適用に全力を傾けると表明したことに、勇気づけられます。
7月に発表された通り、UNHCRは各国政府との特別審議会を開始します。私どもが掲げる目標は、1951年の難民条約の再交渉ではありません。むしろ、条約の全面的な適用を促し、その存続力と有効性を今後も確実に維持するための、新たなアプローチや手段や基準を模索できればと期待しております。私どもは2001年に本条約が50周年を迎えるにあたり、政府間の大型イベントを支援するなど、様々な形で祝うべく計画を進めています。
私が強調したい第4の分野は、戦争から平和への過渡期における、人道援助と開発援助を隔てる“ギャップ”を埋める必要性です。
こんにちの多くの紛争終結後の現場は、慢性的な資金不足状態にあります。注目度の高い人道的危機に際しては、援助は容易に手配できます。不確かな見返りを得るために開発投資を必要とする場合、世界の注目を集めるには遥かに大きな苦労を伴います。時によっては、困窮や死の光景が、資金供与者の関心を喚起する必須条件になることもあるのです。
UNHCRと世界銀行とUNDP(国連開発計画)は、11月にワシントンで会議を開く予定です。副高等弁務官(Deputy High Commissioner)の指揮のもとに、私どもは現存する具体的な提案を推進し、並行するイニシアチブとの連携を強化することを目的に掲げて、1999年にブルッキングス研究所で始まった協議を続行する所存です。資金供与者からは1999年に、機関側のより綿密な調整を要請されました。私どもは努力をしました。しかしながら私は、移行期間におけるさらなる支援、さらなる金銭的支援につながらなかったことに失望させられました
第5の課題は同じく、紛争終結後の現場で起きる問題です。それは、分断されたコミュニティにおける共存の促進です。
戦闘が終結し帰還が始まると、帰郷した難民はしばしば、かつて敵対していた人々と一緒に暮らすことになります。ボスニアからルワンダ、リベリアから東ティモールまで、あちこちでこのパターンが見受けられます。UNHCRは多くの場所で、もはや難民危機ではなく帰還民の危機の解決に取り組んでいるのです。コソボは恐らくその最たる例でしょう。5月に最後に訪れた際、私はNATO(北大西洋条約機構)の護衛部隊に伴われて学校に通う子どもたちの姿に落胆させられました。
UNHCRは“Imagine Co-Existence(注:共存を想像する)”と私どもが呼んでいるイニシアチブを立ち上げました。ボスニアとルワンダでの試験的な計画が、その第一歩となります。私どもはふたつの課題を突きつけられています。ひとつは、人々を再び団結させる方策を考え出すこと。そしてもうひとつは、分断されたコミュニティでの活動において、人道援助と開発の関係者双方に“共存の可能性”、もしくはその欠落を意識してもらうことです。私どもは多くの場所で、ひとつの井戸、ひとつの学校、ひとつの公園が持つ結束させる力、あるいは分断する力について学びました。プロジェクトを計画したり実行したりする時に、私どもは自問しなければなりません。その計画は共存を促すのか、それとも損なうのか、と。それは ―― 私はそう信じているのですが ―― 次の10年の根本的な人道的論点のひとつなのです。
UNHCRの近代化と適正な資力の確保
これら5つの課題を解決するためには、当事務所は適合するさらなる努力をしなければなりません。あらゆる国際的な公的機関に言えることですが、UNHCRにとって変化は苦痛を伴い、骨の折れるプロセスです。1996年以降、私どもは成果を上げました。しかし有効で効果的な存在であり続けたいと望むのであれば、UNHCRは間違いなく、現在より遥かに近代的な機関にならなければなりません。
当事務所は、加速し、技術的に進歩し、グローバル化が進んだ環境に即して運営され、人員を教育し、準備を整えなければなりません。コソボでは数週間のうちに、命からがら避難したかと思えば再び自宅に戻ってきた、数十万もの人々の動きを目撃しました。急激に起きる緊急事態 ―― そして迅速な解決へのプレッシャーの高まり ―― は、職員と資力を管理する上で、私どもの対応能力に新たな要求を突きつけます。しかしコミュニケーションと情報テクノロジーに訪れた革命は、同時に、途方もなく大きな恩恵をもたらし、世界でも最もアクセスが困難で不安定な地域で、私どもはより効果的に活動できるようになりました。
分権化は極めて重要です。私どもはまずアフリカから着手しました ―― そして、数々の難題に直面してはいますが、正しい選択をしたと私は信じております。他の地域でも実施できるよう願っています。次はアジアでもいいでしょう。解決を必要とする、困難な技術的問題もありましたが、上級マネージャーたち(senior managers)がより現場に近い場所にいたことによって、補うことができました。私どもは財務と人材管理の面での分権化を加速しなければなりません。2001年の統合システム・プロジェクト(Integrated Systems Project)の展開によって、保護活動やプログラムから財務や予算、人材、そしてサプライチェーンに至るまで、活動の包括的な展望をマネージャーたち(managers)に提供できるようになります。
もうひとつの重要な分野は人材です。UNHCRは1月に、配属と昇格と契約に関する新たな方針を導入しました。評価の指針となるのは、個人レベルと組織レベル、両面での実績と説明責任です。最終的にはUNHCRの人事実務において、透明性と客観性と公正さをよりいっそう高められるはずです。
私どもは正しい方向に進んでいます。しかし実施のプロセスには少なからぬ産みの苦しみを伴い、現時点では完全に結果に満足しているわけではありません。新しいシステムの運営を妨げる障害物を特定し終え、目下それらを再検討しています ―― しかし、私どもは前に進まなければなりません。目まぐるしく変化する現場のニーズを鑑みると、配属の決断を大きく遅らせることはできません。
職員のローテーションに関する方針も検討が必要です。UNHCRの人材方針においてローテーションは、まさしく組織の価値観と“魂”の部分にかかわることから、非常に慎重に扱うべき側面です。私どもは、楽ではない勤務地で長い年月を過ごした職員を、公正に扱う方法を見出さなければなりません。また、彼らの私生活および職業人生上の重要な局面において、幅広い選択肢を提供しなければなりません。ローテーション管理の改善は、男女の平等における近年の進展と、UNHCRでの女性上級職員の増加を確固たるものにするためには、特に重要です。
資力の管理を改善するには、言うまでもなく厳正なシステムの確立を要します。それは資金供与者にとって、正当な要求です。10年間にわたって途方もなく複雑で困難な現場での活動を管理してきた私は、みなさまと職員に訴えたいことがあります。クリエイティブになって下さい。フレキシブルになって下さい。私どもは自分たちが作り上げたシステムの ―― 捕虜ではなく ―― 所有者にならなければなりません。UNHCRで働く私どもは常に、ダイナミックで、現場主義であることに誇りを抱いてきました。私どもは官僚的で臆病な組織にならないよう心掛けなければなりません ―― それゆえに、必要に応じて変化し順応できるだけの、明晰さと勇気と決断力を持つ必要があります。
そして最後になりましたが、事務所の近代化には資金を要します。明白なことかもしれませんが、残念なことに、UNHCRの財政状況は明るいものではありません。
過去10年間、私は資金調達に非常に多くの時間を費やし、各国政府がUNHCRに寄せて下さった力強い支持に深く感謝しております。これは私にとって執行委員会での最後のスピーチになるため、中でも特に一貫して支持し続けて下さったアメリカ合衆国、日本、北欧諸国、オランダ、スイスに心からお礼を申し上げます。
これらの国々の努力にもかかわらず、また、その他の数カ国の少なからぬ貢献にもかかわらず、UNHCRは資金不足に悩む組織となってしまいました。今年の初めにはすでに、寄付金が予算に届かないことが判明していました ―― その予算というのは、昨年10月にまさに本委員会が承認したものです。この間新たに発生した緊急事態によって、100万ドルの必要資金が追加されました。不足分はこれまで以上に拡大しています。
難しいかもしれませんが、実際に現場に与えるインパクトを考えてみて下さい。私どもはタンザニアでのキャンプの整備作業を遅らせ、QIP(注:Quick Impact Project)プログラムを中止しました。ルワンダで予定していた、ビニールシートの覆いの下で暮らす帰還者への、シェルターのパッケージの配布を保留にしました。ギニアのゲケドゥ難民キャンプでは、住居を求めている人々の3分の2にしか対応できていません。コートジボワールでの資金不足は、リベリアへの帰還事業を鈍化させました。アルメニアでのシェルター支援は半分に減らしました。アフガニスタンでの帰還と復旧プログラムには、十分な資金を供給することができずにいます。
予算の削減は、UNHCRの方針における優先事項 ―― 女性、子ども、そして環境 ―― に直接的インパクトを与える活動にも広がっています。幾つかの国では教育と訓練のプログラムが縮小されました。森林再生を始めとするアフリカでの環境関連の活動も、中止もしくは延期されました。これらは一部の例にすぎません。私が現場を訪れる時、自分たちが助けるべき人々の、基本的なニーズにも対応できずにいる同僚の姿を見ると心が痛みます。
私どもは手を尽くしています。グローバル・アピール、中間報告(Mid-Year Report)、統合予算(Unified Budget)は、私どものニーズを明確にし、活動の透明性をより高めることを目的に発表しています。同時に、民間セクターや実業界、一般市民の間に、より幅広く新しい潜在的支援者を求めることにも、力を注いでいます。これらの取り組みを支えるために、より専門的なメディア対応のネットワークを築き上げています。
また、私どもは度々 ―― 1年間に数回にわたって ―― 予算に優先順序をつけ、縮小することも行なっています。これは、管理の分権化のプロセス全体を妨げており、長期的な計画を不可能にしています。UNHCRの信用を傷つけ、難民、各国政府、そして諸NGOの作業上のパートナーとの関係を損なっています。
早急に行動がとられない限り、当事務所の深刻な弱体化を招くことでしょう。そこで私は資金供与者に ―― 殊に欧州委員会と、近年支援額が減少もしくは経済的潜在力に見合う支援をして下さっていない、ヨーロッパの一部の国々の政府と他の国々に対して ―― 個人的なお願いをしたく思います。新たな資金供与がない限り、UNHCRは厳しい資金不足に直面します。そして、来年の予算への貢献の約束が守られない限り、私どもは2001年にも同じ状況に直面するでしょう。新しい高等弁務官が事務所のリーダーシップをとろうとしている時期に、そんなことが起こり得るわけですから、誠に遺憾に思います。
結論
みなさま
UNHCRは今年12月に創立50周年を迎えます。しかしこれだけ長く続いたことは、決して祝うべきことではありません。迫害と紛争が以前にも増して大勢の人々を故郷から追いやっているからこそ、UNHCRは必要とされているのです。従ってこの節目の年に、私どもはUNHCRを讃えるのではなく難民 ―― 彼らの勇気、彼らの意志の強さ、そしてあらゆる障害を乗り越えて生き延びようとする彼らの意欲を、讃えたいと思います。
12月14日には、UNHCR創立50周年の永続的遺産として、独立した難民教育基金(Refugee Education Trust)を立ち上げます。この基金は、発展途上国で暮らす青年期の若い難民に、小学校教育以降の教育の機会を提供します。焦点は、最も必要とされている場所で、質の高い教育を、可能な限り多く難民に届けることにあります。みなさまがこの重要なイニシアチブを支援する手段を見つけ出して下さるよう願っております。
同時に私は、みなさまがこの組織を今後も支援下さるよう願うと共に、支援して下さるものと信頼しております。10年を経て私は、UNHCRの職員 ―― 彼らが寄せてくれている支持と、その天晴な奮闘の大きな恩恵を私は受けています ―― は非凡な人々であると自信を持って宣言できます。そしてUNHCRが掲げる理念は極めて重要です ―― それは今後も長い間変わることはないでしょう。
私はしばしばこう訊ねられます。この10年間の最大の成功と最大の失敗は何ですか、と。
それは難しい質問です。そして答える方法はひとつしか思い当たりません。それは、たくさんのイメージ ―― 時に幸せで、時に恐ろしいイメージ ―― を思い起こすという方法です。死にゆく子どもたちのイメージ、助けを求めて叫ぶ老齢の女性たちのイメージを。それぞれの難民の顔は、私どもの失敗と成功を最も鮮明に映し出します。ポジティヴな成果は、私に仕事を続ける力を与えました。人々の苦しみを目にすることで、私は悲しみと怒りを覚えました ―― そして私どもの仕事は必要とされていると、毎回私は確信できました。
難民の苦しみ ―― 同僚たちと私はまさに世界中で毎日それと向き合っています ―― は計り知れません。しかし、長年の避難生活を終えて帰郷した時の人々の喜びもまた、計り知れないものです。どちらも言葉では語り尽くせないほどに、大きくて深いのです。彼らは私どもに語りかけます。だから私はこれ以上話さずにおきましょう ―― その代わり、UNHCRの50周年のスローガンに選んだ曲の歌詞に倣うことを、みなさんに強く勧めたいと思います。“Respect(尊重)”と(注:『Respect(リスペクト)』は元々オーティス・レディングが綴った曲で、アメリカの伝説的ソウル・シンガー、アレサ・フランクリンが1967年にレコーディングしたバージョンが大ヒット。彼女の代表曲のひとつになる)。最も貧しい境遇にある人々、家を失った人々を保護するという、みなさまのそれぞれの約束を尊重して下さい。最前線で彼らに寄り添っている、人道援助に携わる人々を尊重して下さい。
そして何よりも、全ての難民を尊重して下さい。ありがとうございました。