「戦争が始まったなんて、どうしても信じられませんでした」

国連UNHCR協会は2023年3月、ポーランドを視察。ウクライナ・ザポリージャ州から、ポーランド南東部の町クロスノに避難してきた3人の難民の女性たちに話を伺いました。

公開日 : 2023-06-14

国連UNHCR協会(以下協会):皆さんの故郷や避難した理由について教えてください。

ウクライナ周辺地図

マリアさん:私たちはウクライナ中南部ザポリージャ州・エネルゴダル市の出身です。
ここクロスノから約1500キロ、ヨーロッパで最大の原子力発電所があります。エネルゴダルは2022年3月3日にロシア軍に占拠されました。
最初は、戦争が始まったなんてどうしても信じられませんでした。木曜日で子どもたちは学校に行っていて、ごく普通の日だったのです。キーウやチェルノブイリは爆撃されていましたが、エネルゴダルは爆撃されておらず、戦争が迫っている実感はありませんでした。プーチンの演説*を聞いたリウドミラさん(避難を主導した女性)が「戦争が始まる」と感じ、みんなに電話をかけ始めました。「戦争が始まったら避難しますか?」と。信じられず断った人もいました。

*2022年2月21日のプーチン大統領によるロシア国民に向けた演説。この後24日に侵攻が始まった。

メアリーさん:私みたいに。

協会:一緒に避難しなかったのですか?いつまで残っていたのですか?

メアリーさん:私は行きたくなくて、占拠された町に4か月とどまり、2022年7月にここに避難してきました。

カテリーナさん:私はすぐに避難しました。最初、避難用のバスは空っぽでした。誰も最初は(戦争が始まって避難が必要だと)信じなかったからです。

協会:空っぽだったのですか? 結局、そのバスでは何人が避難しましたか?

カテリーナさん:75人です。定員は50人でしたが、座席の間にも座りぎゅうぎゅうでした。一番小さな子どもは生後数か月でした。

マリアさん:私は3人子どもを連れていて一番下の子は2歳、上の子は12歳で本当に大変でした。爆撃のたびにルートを変えなければならず、夜は危険で移動できませんでした。国境は徒歩で逃げて来た人、自家用車、バスなどで国境は大混雑でカオスでした。気温が15度ほどに上がった後、一気に零下5度まで下がり大雪が降りました。でも誰も備えていませんでした。冬用の靴も上着もない人もいて、夜は眠れず、この先どうなるのかも分からず、最もつらかった体験の一つです。国境で子どもと手をつなぎ待ち続けている女性を見て、同じ母親として胸が痛みました。ポーランドに入るまで3日かかりました。

三人(口々に):ポーランド政府が、ウクライナから逃れてくる人を公的な書類を持っていなくても受け入れたことは重要でした。国境を越えると多くのポーランドの人々がきて食べ物や温かいスープ、毛布、温かい服などをくれました。国境ではシステムが何度もダウンし、到着する人々の情報を手書きで記録し、休みなく働いていました。私たちが「3日間眠っていないんです」と言うと、国境のスタッフも「自分たちも3日間眠っていない」と答えました。

シェルター
3人が避難するシェルター。UNHCRとパートナー団体が防寒対策など改修を行い、約140人が避難している

カテリーナさん:(クロスノの)この寮に住んでいた学生たちは、私たちのために他の寮に移ってくれていました。私たちがここに到着したのは朝の4時でしたが、町の人々が皆待っていて、とても温かい出迎えを受けました。部屋は改修され、きれいに整えられていました。私はまだその時、2週間くらいで帰れると思っていました。

マリアさん:私たちに取材の依頼も多くありましたが、町の人々が間に入り、私たちが疲弊してしまわないよう取り計らってくれました。

メアリーさん:私には1歳の息子がいるのですが、お金もあまりなく、逃れてもどこに住むのか分からなかったので、怖くて避難できずにいました。ついに避難することになり、車でロシアに占拠されている地域の国境まで行くと400台ぐらいの車列があり、ロシア兵が全ての車をチェックしていました。普段なら町からザポリージャまで約1時間なのに6日間足止めされ、どうなるか分からず、つらい6日間でした。ついにウクライナ側に入り、ウクライナ兵の姿が目に入った時、私は激しく泣きました…、その感情は言葉にできません。
そしてクロスノのこのシェルターに着き、部屋を開けたらおむつやおもちゃ、私たちに必要な物すべてが置いてあったのです…(涙声になる)。クロスノの町は避難前から、エネルゴダルへ多くの支援物資を届けてくれていました。占拠されて必要な物も手に入らなかったので、本当に助かっていました。5月には人道支援もブロックされてしまいましたが。

私と息子の避難後に私の夫は、ガンを患う彼の母親も避難させると決めました。危険なので迂回するしかなく、クリミア半島、ジョージア、リトアニアなどを経て5000キロを運転する危険な旅でした。国境では携帯電話を7時間取り上げられ徹底的にチェックされたり、男性なのでいつどこで捕らえられるか分かりませんでした。(注:その後彼らは10日かけてクロスノに無事たどり着いた)。
エネルゴダルには今も母と80代の祖母たちが残っていますが、しばしば停電しお湯もなく電話もつながらない時もあり、状況は厳しいです。私の祖母は85歳で、子どもの頃には第二次世界大戦を経験しています。

マリアさん:子どもたちはウクライナの(カリキュラムの)学校に行けず、ロシアの(カリキュラムの)学校に行かされています。これは最もつらいことの1つです。ウクライナ人の教師は強制的に街から追われました。本当にひどい状況です。

2人の女性
インタビュー中は涙ぐんだメアリーさん(左)も、別れ際はマリアさんと笑顔を見せてくれた

協会:状況が改善したら故郷へ戻りたいですか。

カテリーナさん:私は勝利した時のみ帰ります。勝利すれば平和が戻るでしょう。

メアリーさん:ここにいる人の多くは「戻りたい、戻りたい」と話しています。これは私の(本来の)人生ではないし、これは私ではない、という気持ちです。でも、今先のことを決めるのはとても難しいです。

*このインタビューは2023年3月に行われ、個人の経験や見解に基づくもので、必ずしもUNHCRの見解を表わすものではありません。


ウクライナ支援のお願い

紛争で避難を強いられた人々を守るUNHCRが果たすべき責務は2023年、さらに重要なものになっています。 皆様のご支援は、ウクライナの人々を守り支える大きな力になります。ぜひとも温かいご支援をご検討いただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

※当協会は認定NPO法人ですので、ご寄付は寄付金控除(税制上の優遇措置)の対象となります。

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